c 黒野さん

360. 宿里恭一郎
... 2019/09/09...Mon // 15:54:58

(車窓は夏の居座りの橙色陽が降り注ぐくせに、黄金の稲穂が揺れて秋の訪れを知らせている。自分の恋人は随分と曖昧な季節に生まれたものだと額に滲んだ汗をハンカチーフで拭った。仕事を定時であがり、夜が香り始める商店街を歩く。アポなしの訪問もこの時間であれば構わないとタカをくくっていた。この日はきっと黒野時計店は営業していると前々から承知している。去年の自分の誕生日に、彼は手料理というサプライズを用意してくれていた。やられっぱなしは性に合わないと用意していた贈り物の他にもうひとつ、まずは視覚的驚愕をと道中思い付きで立ち寄った花屋で花束を購入する。薔薇の花?いやそんな王道…と捻くれ精神が選択したのは情熱の赤とはまるで正反対の桔梗の花である。青い星型の花は天体観測が好きな彼の好みに合致してくれまいかと少しの期待を込めて。ゆっくりとした歩みで、陽は橙から藍色に染まり広がって、時計店に辿り着く頃にはすっかりと夜のカーテンに覆われている。クローズまであと少し、自分が本日最後の客となることを信じて扉を開けた。出迎える彼の目に最初に飛び込んでくるのはきっと青い星花の群れ。そこからひょこりと覗かせた赤眼は愛しさに満ちている。)

こんばんは、今日が何の日かご存知ですか?
メールに電話に手紙…色々コンタクト方法はあったんですが
やっぱり会いたいって気持ちには逆らえませんでした。

(お届け物です、と差し出す己らしからぬ花束と。そしてもうひとつは黒い紙袋に入った小箱である。中身は時計をモチーフとしたメンズブローチだった。鈍く光る銀を基調にアンティークの魅力を存分に引き出す職人技の銀細工は普段使いというよりは観賞用に制作されたことが窺える。動かぬ時計の盤面には9月の誕生石サファイヤと3月の誕生石アクアマリン。濃淡の異なる蒼が埋め込まれていた。)

誕生日、おめでとうございます。
その…、(こほんと咳払い)
こういうのは口に出さない方が本当は良いと思いますが今日は特別に。

(勿体ぶってそっと耳打つ。
メンズブローチを裏返さぬ限り気付かぬ、英語で記された文言は―…)

貴方と出会えて良かった。これからもずっと傍にいてください。

(そして本音の蛇足を悪戯に微笑み追加する。)

…というか、逃がしませんから。
夕飯まだですよね、もうすぐ店も閉店時間でしょう?
一緒に食べに行きませんか? ディナーと洒落込みましょう。

e 宿里さんへ

361. 黒野
... 2019/09/12...Thu // 19:41:20

(腕時計のベルトの調整が終わり、店内の時計──時計はたくさんあるので何処を見ても良かった──をちらと見遣り、今日はそろそろ閉店かと思ったころ。店のドアが開いたので「いらっしゃいませ」と柔らかく笑みを浮かべて……一瞬だけ目を瞠り、すぐにまた微笑に戻った。意外な来客、ではない。相手の顔は淡い青紫の花束で見えないけれどきっと来ると思っていたからだ。開店前にポストに何も置かれていなかったなら、彼は夜に来るだろうと確信があった。昼と夜のあわいに消えてしまいそうな青紫の向こうから愛おしい紅がふたつ見えた時、自分はひどく緩んだ顔をしていなかっただろうか。「こんばんは、ええ、今日はぼくの誕生日です。ぼくはあなたが来ると思ってましたよ。メールや電話、手紙で満足するような人ではないでしょうし、何よりぼくが会いたいと念じて引き寄せましたから」なんて冗談とも本気ともつかぬ様子で言いながら差し出された花束と黒い袋を受け取る。「キキョウの花束って初めて見た気がします。トルコキキョウならよくありますが、あれはリンドウ科ですしねえ。……キキョウの色も形も好きなんです、花びらの縁がぴったり寄り添って閉じたつぼみが開くと展開図みたいで──」花弁が折り重ならない風船のような蕾の中には何が入っていたのだろう、そんな空想に口許を和ませる。耳打ちされれば瞼を伏せ、その音や意味が耳から脳へと流れて沁みて全身を巡るに至り自然と唇が開き「もちろんです」とただ一言。ディナーの誘いには二つ返事で応じて、閉店の作業を済ませれば晴れやかに夜の空気を味わいながら商店街を歩いていった。料理を味わいながらたくさんの言葉を重ねたけれど、改めて後日ペンを執った。シンプルなアイボリーの便箋に藍色のインクで綴られる短い手紙は……)


先日は誕生日のお祝いと素敵なプレゼントをありがとうございました。

そう言えばキキョウの根は解熱や鎮静の薬になるそうですよ。
切り花にして根を落としたのは、この熱も浮つく感情も決してさめないようにでしょうか。


なんて、冗談です。ぼくだって逃がしませんからね。


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