黒野さん228. 宿里恭一郎 | |
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(癖がかった黒髪を早朝の涼やかな風がそっと揺らしている。6月に入り衣替えをした薄手のシャツでは少し肌寒く、手に掴んでいた上着を羽織りなおす。商店街の北部へ向かい、宿里の足は進んでいた。主居住区より郊外にある森近く、ただでさえ早朝。人通りはない。赤眼に淡い茶と白を基調とした年季を感じさせる外観が見えてきた。過るは月のない夜の、……。無意識に仕事鞄の取っ手を握りしめる己に気付けば、自嘲の息が漏れた。)何か月経ってると思ってるんだ。(未練がましい、と意識的に力を抜く。歩が止まらぬ限り、結局は辿り着いた目的の場所。外装にそぐわぬ新しい看板を見上げる。歯車……、きっと手製だろう。この店の主はとても器用のようだったから。店は開いているだろうか、否、開いていては困る。この時間帯を選んだ意味がない。窓ガラスがあれば店内を興味本位に覗こうとするも、きっと店主に見つからないように。) (やがて、店に備え付けられているだろうポストに分厚い封筒をカタンと投函し、宿里はその場を去った。封筒の中身は、数十枚にわたるレポート……内容は今年2月の新月模様である。当日にあったことを仔細に記しており、人間から吸血種になった1人の男性に焦点があてられている。血液を保管する為の日常的な工夫。牙を持たぬ人間が血を啜る為に生み出した指輪の構造、その利点に、人間の己から見えた欠点。月に狂うまでの過程、垣間見えた感情の差異。血液摂取時に伝聞した感覚と、摂取者と被摂取者の脳内環境による味覚への影響に関する考察。そして、これまで宿里が書き綴ったことのなかった『人から吸血種になることで生まれる苦悩』まで…―――あの日、見て、聞き、体感した、身体と脳に残る全ての”記憶”が其処に詰め込んである。レポートの表紙には一筆箋と傷つかぬように丁寧にスポンジで包み込んだ指輪の入ったビニールが貼りつけられていた。) レポートの返却は必要ありません。お納めください。 指輪、本当に有難うございました。 それから……、僕には写真の才能がないようです。 | |
宿里恭一郎さん233. 黒野 | |
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(6月になると空気は春の爽やかさから湿り気を帯びた温かさに移り変わる。黒野時計店の閉店時間になり店のシャッターを下ろしたら、逸る足がもつれないようにアパートの階段を上っていく。大切に胸の前で抱えるのは、今朝開店する際にポストから取った封筒。中をちらと見ただけですぐに分かった、これはとても大切なもので、待っていたもので、きっとこれを読んだらしばらく自分は使い物にならなくなると。201号室の鍵を開け、普段よりも雑な仕草で性急に靴を脱ぐと、習慣で手洗いとうがいを済ませる。そしてインスタントコーヒーを淹れたら、テーブルに置いた封筒のもとへマグカップを片手に戻り……そっと封筒から紙束を取り出す。「ああ」と溜息のような声が漏れる。表紙から袋と一筆箋を丁寧に外し──こちらは後で確認するとしよう──震えそうになる手で表紙をめくる) …………。 (両目は食い入るように文字を追う。2月の新月、子供たちは禁を犯して夜闇の冒険に出掛け、あの夜に起きたことを自分はまだ半分も理解していないだろう。読むうちに自分の周りが冬の冷たく乾燥した空気で満たされているように、あの夜に引き戻されるように感じられた。黒野という吸血鬼の個体の、生活を、生態を、感情を、つまびらかに記すレポート。時計のように分解され虫のように標本にされ、自分が物語になったようで……。新月までまだ日があると言うのに視界に赤がオーバーレイする錯覚に襲われ、長く細く息を吐き、吸う。参った、無性に血が飲みたい、そんな衝動をコーヒーで誤魔化す) レポート、ありがとうございました。 自分のことがこうして書かれているのを読む、というのは不思議な感覚になります。宿里さんの目を通じて顕微鏡を覗くぼくと、レンズの先に置かれているぼく、そんな感じでしょうか。 あの日砂浜で飛行機の残骸を見ながら、ぼくは「人の死と一生が時間を経ると物語になる」なんてことを話した気がします。 宿里さんのレポートを読んで、ぼくは自分が物語になれたような……大袈裟でしょうが、本当にそう思いました。 そして、時計のように部品のひとつひとつを外されてあらゆる角度から観察される感覚、あの日子供たちがそれをするんじゃないかと、密かに期待していたようなもの。レポートに丁寧に書かれることで、その感覚を少し味わえた気がします。 素晴らしいレポートでした。 夜空の写真、後から思いだしましたが使う道具やそれぞれの設定とか、ややこしいですよね。 頼んでおいてなんですが、実はぼくも撮影はあまり経験がないんです。 宿里さんさえ良ければ、一緒に天の川を撮る練習でもしませんか。 黒野 (レポートを受け取った翌日、ポストに投函した手紙。青や紫が水彩の滲みのように印刷された便箋に綴られる文字は、ペン習字そっくりの形のくせにところどころ揺れていて終筆が荒れている) | |
黒野さん234. 宿里恭一郎 | |
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(6月に届いた手紙を読み返す。ああやっぱり、今日も、笑ってしまった。) (気付けば8月。子供達が夏休みに入り、日々自由研究の為にと大勢が博物館へと訪れている。日中はその対応に追われる為、机上業務を始めるのは夕方頃、さすれば帰宅時間もいつもより遅くなるのは道理であった。さて、いつもはまっすぐに帰宅するが、今日はポストへ寄り道をすることにした。スポットライトのような蛍光灯のチカチカした灯りがポストを照らしている。すっかり夜になっているとはいえ、熱帯夜の日々も多々。今日も今日とて暑い夜で、ただ歩くだけで額に汗が滲んだ。ハンカチで滲む汗を拭い、蝉の死骸がころりと道端に転がっているのを横目に古めかしいポストへ手紙を投函し、家路につく。その手にはポケベル。打ち込む途中、ふと見上げた夜空には、七夕が過ぎた今も、天の川が美しく流れていた。) 投函してすぐにでも、貴方にポケベルを送るつもりでいます。 だからこれを読んでる頃には、もう撮影の日程調整なんかも済んでいるかもしれませんね。 では何故僕は手紙を送ったのか。 ちょっと試してみたいことがあったんです。 思っていることが表情や仕草に出る人って結構いると思うんですが、 はたして顔以外のところにも滲み出るものなんでしょうか。 さて、どう思います? 僕のは、貴方に伝わりますか? 文字は、正直ですね。 黒野さん。 (便箋に流麗な右上がりの筆跡で書き綴られた文字は、筆圧強く、またところどころインクが掠れている。) | |