景虎さんに293. 山田太郎 | |
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(それを思いついたのは何時だったか。月のない夜の話をした時、去年の晩秋の頃だったように思う。教会のバックヤードにあるとある一室に、古びたグランドピアノがあった。物置として使用されている部屋だが、そこにはパイプオルガン用の楽譜や、ハンドベル、その他簡単な打楽器なども収められており、宛ら小さな音楽室とでもいった風情である。ピアノの調律は、自分が教会の鍵を預かった頃から、折を見て定期的に行っている。手袋を外し、カバーを開いて白鍵と黒鍵の前に座った。背筋を正し、椅子の高さを直して、ペダルの踏み具合、基音の高さを確かめる。楽譜立てには何もない、必要な音符は全て暗記している。カソックの袖を捲り、ボタンを外した袖口のシャツも手首の上まで折ってから、ピアノの上に置いた録音装置のスイッチを、入れた) (回り始める空のカセットテープ。独奏は思いつく限り。気づけば四半時が過ぎていた。停止のスイッチを押して立ち上がる黒衣。ピアノはまた元の通りに仕舞われて、録音されたカセットテープを手に私室へ向かう) (――馴染みの島民との別れにまつわるポケベルの遣り取りを始める前に、思い付きで郵便に託したその手紙が届くのはどの辺りになるだろうか。少し大きめの白い封筒に、プラスティックのケースに入ったカセットテープと手紙が同封されている) 貴方だけの月を捕まえてきました。 月のある夜も、月のない夜でもその傍に。 (便箋に記されたのはたった二行だけ。思いの丈は何時も以上に込めたが――伝えたい事が多すぎると、かえって言葉が思いつかなくなるらしい。それに、今回の主役は手紙ではなく、音楽だ。ピアノで奏でたのは月の名前がつく古今東西の楽曲――『Moon River』『Fly Me To The Moon』『朧月夜』エトセトラ、エトセトラ。どれもが鍵盤を撫でるような柔らかさで閉じ込められた音達だ。日頃から音楽を聴いて楽しんでいるだろう彼のお気に召しますように) | |
有難う、お前のおかげで元気になった。296. アンバー | |
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(――いつだったろう。子のように感情を抑えきれず泣き叫ぶようなことがなくなったのは。人は成長するにつれ、悲しみをやり過ごす術を身に着けていく。それでも時折バグが出る。覆い隠した内側、浸透する寂寥は少しずつ波紋のようにいつしか広がってしまっていた。繰り返す友人との別れは、画家となり『あの日』を色鮮やかに仕上げていく。喜ばしいことだったり、新たな旅立ちだったり…これはアレとは違うものなのだと理解する自分と、責め立てる色彩の渦。手にした受話器、結局回すことのなかったダイヤル。教会へ用もないのに赴いた足、出会うことのなかった熱。それで良かったのかもしれなかった。今夜の自分は如何ともしがたい。恋人へのポケベルにやりきれぬ想いを匂わせるようなことを打ち込むなど……いくら後悔してももう言葉は飛んで行ってしまっている。―――良い大人が情けねえな。カップに注ぐのは沸騰させぬよう弱火でとろとろとあたためた血液。そこへ一滴垂らしたブランデーは、命の錆びた香りを引き立てる。漂う湯気を吸いこみ、窓際へ向う丁度その時にベルが鳴った。送られた文面を読んで、ひどく抽象的な言葉に黒檀を細めるも玄関へと向かう。まだ確認していなかった郵便受けには、きっと彼のいう『月』が在るのだろう。) (今夜は月の綺麗な夜だった。前墓守の特等席だったロッキングチェアーの背を軽く押し、窓際よりその柔らかな月光を浴びる。脇に置いたテーブルにはラジカセと読み終えた便箋。くるくると回るテープは再生し続ける。耳馴染みの良い旋律を。持て余す寂寥を包み込むような 恋人の優しさと思いやりを。脳裏に浮かぶのはピアノの前に座る愛しい黒衣、鍵盤を淀みなく動くしなやかな指。”傍に、いる”と…、”自分はどこにも行かない”と、まるで語り掛けてくるようだと思った。不意に目頭が熱くなるのを感じ、そっと閉じた瞼。仄かに震える息を飲み込んで。やがて、気付けば男は旋律に乗せ、唇を開き、静かに静かに…―――) (月の綺麗な夜。墓地管理小屋から漏れ聞こえるのは、柔らかなピアノの旋律とそれを追うような静かな低い歌声。此処にはいない…けれど此処にいる相手と寄り添う為に。色鮮やかなあの日は再び褪せて、ただ愛しい日々を想いながら。男は、存分に自分だけの『月』を抱きしめる。) | |
それは何よりでした…音楽はやはり、いいものですね。298. 山田太郎 | |
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(月光の射す一室。いつの間に眠ってしまったのか、カバーを下ろしたピアノへ凭れるようにしていた体を起こす。カーテンを引き忘れた窓の向こうに広がる夜空を仰ぎ、暫し胡乱な眼が銀の光を注がれて夢現を彷徨った) (明日の予定はどうだったか。今に至るまでにやり損ねてしまった事は無かったか。考えながら、両手は再び艶やかなピアノの蓋を開く。目が冴えるような白、光を呑む黒。指を温めるためにスケールをなぞり、あのテープにも一曲目へ録音したお気に入りの曲を奏でた。知らぬ内に微笑んだ唇から、英詩が零れて旋律を奏でる。それは奇しくも、その日その時に相手が聞いていたのと同じ曲の、同じ個所であったかもしれない。離れていても、同じ音楽を楽しんでいる) (さみしい夜には歌をうたいましょう。あの月を目指して、どこまでも、どこまでも、その傍らに――あなたの哀しみがいつか癒えるまで) | |