利谷さん339. 鷲宮八慧 | |
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(顔を合わせれば、つい居着いてしまいそうで。夜勤明けの彼に無理を強いるのは本意でなく──今日ならば、尚の事。彼は帰宅し、今頃夢の中だろうか。多くの島民が活動し始める朝方、キーケースから合い鍵を取り出す。抜き足差し足、何とやら。勝手知ったる彼の御宅に忍び込めば、無事に寝床へと辿り着けるはずだ。メッセージカードとともに真紅の紙袋をその枕元に置いて、さっさとずらかる前。ふと振り返っては、眠る彼の目元をやさしく撫でた。ひどく愛おしげに、たった一度だけ。) おはようございます、差し入れです。 眩暈がするって、あんたが言ってて。迷ったんですけど、一応。 いつもお疲れ様です。 次は本物の酒でも。貰った御食事券、まだ使ってないんで。 鷲宮 (とある意趣返しに、差し入れという名目にて。ちなみにこじんまりした紙袋には小洒落たケース──少しは彼の口に合うだろうかと、ウィスキー・ボンボンが五つ。彼の手元に残るのが、店頭のものも含め、このチョコレートだけなら良いのに。ともあれバレンタインデーに、ささやかながら愛を込めて。) | |
---346. 利谷趣里 | |
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(「俺が起きてくる前にソレは完売させろよ」早朝勤務のアルバイトに無茶を言い残して戻る私室。連日店内に漂うチョコレートの香りは当然己が仕入れたからそうなったのであるが、ボディーブローのように己の体力をじわじわと削っていた。敷きっぱなしの煎餅布団にぱたんと倒れれば五秒後には夢の中。そういえば夕飯食ってねえな、と思い至ったのは夢と現の境目あたり。――そうだ、久しぶりに美味いメシが食いたい。味噌汁と白米と、主菜はなんでもいい。焼き魚か、牛肉の時雨煮か、そういえばほうれん草の胡麻和えは美味かった――……) (なにゆえ唐突に久しく食べていない健康的な食事など思い出したのか。その理由に気付いたのは目が覚めたあとのことであった。平素と同じように身体を半分布団に残したまま腕だけを伸ばして缶から紙巻を取り出して咥える。火を点けて吐き出す煙と共に意識は徐々に鮮明になり、そうしてようやく枕元の紙袋に気が付いて。二月十四日。バレンタインデー。嫌というほど染みついたその日付を忘れるわけもなく、己が招き入れたのでもないのにこの家に入ることのできる人間など他にいないからして。来ていたのか。いつの間に? メッセージカードを拾い上げて文面を何度も読み返しながら、恐る恐る紙袋の中の包みを開く。ここ数日で嗅ぎなれたはずの独特の香りが、アルコールと相俟ってふわりと身体に染み入った。すん、と鼻を鳴らしてもう一度。ひと粒摘まみあげて口に放り込む。口の中に充満していた刺激臭がチョコレートとウイスキーに変わっても、まるで嫌な心地はしなかった。否、嫌どころか。)……くそ、(本心とは裏腹に苦々しく吐き出して立ち上がる。箱は丁重に抱えて一旦は冷蔵庫へ。廊下に置かれた旧式の黒電話は長らく使われてはいないが、電話台の下には申し訳程度に商工会の名簿が置かれている。数年ぶりに開くそれの中から選びだしたのは宝飾店の電話番号。ダイヤルを回した先で繋がる店主は当然顔馴染みである。電話を切ったらポケベルを返そう。考えあぐねた返信の肚が漸く決まった。)――あァ、もしもし? 俺。忙しいとこ悪ィな。いや、今日は客だ。誰がって俺がだよ。揃いのがいんだと! 指の太さ? 知らねえよンなもんあんのか? サイズ? あー……。んじゃそのうち直接店に連れてっから。仕事の邪魔ンなんねえようなの見繕っといてくれや。あと付けたまま風呂入れるヤツな! | |