黒野さんへ350. 宿里恭一郎 | |
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(ホワイトデーはバレンタインのチョコレートの買い占めが思うようにいかなかった時のリベンジ日。そんな浪漫もへったくれもない認識は今年からバレンタインの折同様に改めねばなるまいと、返礼の品を求めて宿里は商店街を歩いていた。肩からかけたショルダーバックには本屋で仕入れた参考書代わりの『ホワイトデー特集』なるメンズ雑誌が虎の巻として鎮座しているが、大方はもう昨晩のうちに頭にいれていた為、今日出番が来ることはないだろう。)……さて、と。(様々な候補をふわふわと脳裏に浮かばせ、店を選別する。と、商店街の中で一際人の賑わいの多い一軒が目に留まった。賑わいに呼び寄せられるように向うと、ホワイトデーのお返しの品に力を入れた雑貨屋であった。看板には『ホワイトデーはバレンタインのリベンジ』と意味は違うだろうが、奇しくも自分が考えていたホワイトデーの定義が書かれていたものだから思わずくすりと笑ってしまって。気を取り直すように入ろうとした矢先、とん、と誰かと肩がぶつかった。)…っと、すみません。いえ、…どうされました?(ぶつかったのは学生。つい、そう聞かずにはいられなかったのは彼の表情が曇り空のようにどんよりとしている上に頬はげっそりとこけ、目の下には隈まで携えていた為。面倒事は御免であるが、死人のような表情の彼の瞳に寂寥が宿っていたのを見逃せず、気になってしまったのだからしょうがない。実は…、と話し出す青年。どうやら憧れの慕っていた先輩がもうすぐ卒業してしまうのに自分は勇気が出せずバレンタインに何もできなかった、せめてホワイトデーはと勇気を出してここまでは来たが何を贈れば喜んでくれるのかがわからない、自分はもうだめだ、とのこと。)駄目かそうじゃないかは相手が決めることです、君が決めることじゃない。…なんて言ってもそんな精神論でどうにかなるなら苦労はしませんよね。…そんな君に僕からこれを授けましょう。(鞄から取り出したのは例の虎の巻だった。購入日から読み込んだそれはすっかりと古くされ、至る場所にマーカーや付箋が貼ってあり、品に対する己の考察もしっかりと記載されている。)まだホワイトデーまで数日あります、月並みですけど動かなければ何も始まりません。したいようにしないと後悔しますよ。(先輩のこと好きなんでしょう?と自然赤い眼が優しく微笑んだのは、己らしからぬことは承知した上で、なんとなく恋人とのことを思い出したから。雑誌を受け取った彼を激励し、別れた後は、)全く、……誰に向けて言った言葉なんだか、(途中から自分に言い聞かせているようだった、と苦い笑いは喧騒へと溶けて。) (それは朝早く、時計店のポストに投函される。結局あの雑貨屋では購入しなかった品は、ホワイトゴールドの薄布でラッピングされたネイルオイルのセット。彼の、なめらかでしなやかな手を爪の先まで慈しみたくて、と身勝手な心より。ボトルはスタイリッシュな細身のもの、香りは彼の好みがわからず結局強すぎず柔らかで、様々な香りを楽しめるものにした。添えられたメッセージカードには以下の様に記されている。) 手を大切にしてくださいね、黒野さん。僕は貴方の手、好きですから。 | |
宿里さんへ353. 黒野 | |
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(リビングのテーブルに並んだ、ほっそりしたボトル。ネイルオイルというものを知らなかったもので当初はマニキュアの親戚かと首を傾げたものの、調べてみるとネイルケア、爪や周辺の皮膚に良いものらしい。ボトルのひとつを取り、キャップを外し刷毛が含んだオイルを少し落として爪の付け根に軽く付けていく。指先で馴染ませてマッサージするうちに爪が艶を帯びて優しい甘い香りまで立ち始める) ……っふふ。 (こういった匂いは嫌いではないしむしろ好きではあるが、自分の指から香るというのも妙な感じがする。ただ、その慣れない奇妙さも好ましいもの。様々な香りがあるので気分で使い分けるのも良いだろう……と思いながら便箋とペンを取りに立つ) 素敵なプレゼントをありがとうございました。 ハンドクリームはいつも使っていますが、油断するとささくれができるもので助かります。 大切なものに触れる手は良い状態に保ちたいですから。 ……自分の爪がつやつやして良い香りをさせているのは少し不思議な気分ですが、 時計に触れるとき背筋が伸びる思いがしたので、きっとあなたに触れるときもそうなんでしょうね。 (柔らかい清涼感と甘さが一番落ち着けると感じたものを一滴、便箋に落とした跡。香を焚き染めるようには行かないので油染みができただけに見えるが、僅かでも残る香りが手紙と一緒に恋人のもとに届くように願いながら。同じ匂いの指先で封をしたら、封筒をポストに出しに行こうか) | |