黒野さん371. 宿里恭一郎 | ||
(今年は暖冬で、暦では春を迎えているはずなのに…。吐く息は白く。曇天の夜空からゆるりと降るのは天使の羽のような淡雪だった。時計店へ向かう足が止まる。寒く冷たい夜に思い出すのは決まって鮮烈な二人の世界。受け皿の様に差し出した掌に落ちた淡雪が溶け消えていくのを見守る間もなく、掌を柔く握りしめて再び歩を踏み出した。アポもなくクローズの時間に合わせて来たのは謀ってのこと。今はまだ直接顔を見ることはできない。何故ならばまだ誕生日に貰った懐中時計の礼を伝えられていなかった。あれに関してはまだまだ『検体』となってもらわなければならぬ故、今宵は用件だけを済ませ名残惜しげに一度店を振り返りその場を去る。店のポストに入れたのは小さな小箱。あれだけ彼にハートを求めておきながら包装紙は無地だった。箱に詰められていたのはコルク栓の瓶。中には星の欠片のような色とりどり金平糖に混じり、惑星を模した飴が詰められていた。太陽、月、地球。小さな宇宙が其処にある。添えられたメッセージカードには以下の言葉が綴られていた。) ありがとうの気持ちだけ先に。あとは会った時に伝えます。 (ホワイトデーでは、贈る菓子によって意味合いが決まる。飴を選んだのは好意を示すからという理由だけではなく、――いつまでも口の中に残る甘さが彼を侵食しているかのように思えたからだなんて…)僕、ちょっと疲れてるんでしょうか。(緩い苦笑いは、夜の闇へと溶けていった。)
|
ポチさんに。残暑見舞い申し上げます!372. 口口桃音 | ||
(井戸端会議での何気ない会話の中で、これまた何気なく持ち掛けられた素敵な手紙の誘いに嬉々として乗った。荷物の中にはスタンプセットもあり、色とりどりのペンやデザイン用の色鉛筆もある。スケッチを重ねて束ねて一旦脇へ除けると、青い海と白い砂浜の描かれた葉書に文字を書きつける。) 残暑御見舞い申し上げます。 俺は此処で迎える夏は初めてですが、やっぱり暑いですね!でも海が直ぐ近くにあると、毎日リゾート気分で凄く楽しいです。 ポチさんは毎年、どんな夏を此処で過ごしてるんですか? 夏だけに取っておいてある楽しみはあったりしますか? 手紙出していいよって言ってもらえて嬉しかったです。ありがとうございます! お体気を付けて、夏、楽しみましょう! (ペンを走らせてみれば書きたい内容が次々思い浮かんで、結局ヒマワリのスタンプを捺せそうな余白は左上一箇所だけだった。こつこつ、とキャップを被せたペンの尾を顎に触れさせつつ微笑み、間もなく席を立つと投函の為、外出の支度を始めた。)
|
恭一郎さん370. 黒野 | ||
(3月1日の夜、彼のコデモ端末は短いメールを受信するだろう。“玄関から出て、少し空を眺めたらポストの上を見てください”……早めの就寝をしていなければ、あるいは眠る前の時間を邪魔していなければ良いのだけれど) (郵便受けの上に置かれた箱、その包装はバレンタインデーの時と同じようなハート柄、しかし今度は一切の加減なくハート柄であった。桃の花を思わせるピンク色に細く紅い線で描かれたハート模様は心臓であり、箱を走る血管でもある。手紙が添えられた箱の中にはもうひとつの、本当の心臓が艶やかなサテンのクッション材の中で小さな鼓動を繰り返していた。それは銀色の鎖と、蓋に月があしらわれたシンプルな懐中時計──) かねてから時計師の勉強をしていましたが、ようやくそれなりの形にできました。 ムーブメントは汎用のものですが、歯車などのパーツは自作です。文字盤も一応、ぼくがデザインしたんですよ。 最初に作る時計はあなたに差し上げたいと思っていたので、誕生日に間に合って良かった。 ……正直なところ、デザインについては自信がないので無難に過ぎるものですし、中の機構も精密性ではまだまだです。 なので、もしかしたらすぐに調子が悪くなるかも知れません。その時はぼくが直しますので言ってくださいね。 それから。分解してみたくなるかも知れませんが、恭一郎さんのそれを止めるのは難しそうなので、なるべく丁寧に優しく分解してもらえれば直すぼくとしてもありがたいです。 お誕生日おめでとうございます。 今日という日の最初にお祝いしたい気持ちもありましたが、少し焦らしてみたくなった……というのは冗談です、誕生日の終わりにお祝いするのも良いと思ったもので。 そのかわり、この時計は3月1日の0時から動いています。 今日は恭一郎さんにとって素敵な日になったでしょうか。 どうかこれからも、太陽が照らす時も月が照らす時も、月のない夜も。一緒に歩んでいけたらと思います。
|
利谷さん366. 鷲宮八慧 | ||
(彼がいつも通り目覚めたとして。枕元にある眼鏡の隣には、すっきりとしたストライプが描かれた紙袋。念の為に取り付けられた保冷剤と包装紙を除けば、彼の手元に現るは真四角のトリュフケース。グラシン紙に包まれる生チョコは、たっぷりのココアパウダーと抹茶パウダーをその身に纏っている。ほろ苦く仕上げた二色のそれの他に、手紙が一通。さらさらと綴られるメッセージにはふたりの「日常」をのぞかせるように。) おはようございます、利谷さん。もう夕方でしょうね。 今年もひびマはバレンタインのフェアをやってるんでしょうか。 やってますよね。じゃあうんざりしてると思いますけど、一応。 今日は帰りが遅いので、先にお渡ししておきます。 お返し、楽しみにしてますね。 ハッピー・バレンタイン。 追伸 冷蔵庫に蒸し鶏があります。 好きなように食べてください。 (やや色気がなく、生活感の溢れる締め。冷蔵庫にはしっとりした蒸し鶏が眠っている。いつも通りはいいもんだ。)
|
恭一郎さん365. 黒野 | ||
(恐らくは直接の来訪で郵便受けの上に置かれたと思しき箱。開き直ったかのようにハートの散らされた赤い包装紙だが、良く見るとハートの輪郭は細い葉がくるんと丸まった形でどことなく往生際の悪さが漂っている。箱の中には歯車の形のチョコレートがふたつ寄り添い、銀色の円い紅茶缶が並んで収まっている。そして添えられた手紙には) チョコレートの手作りは製菓用のものを溶かして固めるものとばかり思っていたら、 今はカカオ豆を自分で挽いて作るセットがあるんですね。面白そうなので挑戦してみました。 手でひたすら擂って練って濾しても食感では機械に到底敵わないでしょうけど、こういった作業は嫌いじゃないです。とても疲れましたが。 寄り添って回り続ける歯車はきっと少しずつ摩耗していきますが、その度にメンテナンスをしましょう。それについては専門分野ですからね。 紅茶のことは詳しくないですが、チョコレート菓子が合う葉だそうです。 このチョコレートも、穏やかな時間に寄り添えたら嬉しく思います。 ハッピー・バレンタイン。
|
恭一郎さんへ362. 黒野 | ||
(12月25日未明、サンタクロースを気取った男は深夜の散歩と称して住宅街を歩く。目当ての家のポストに包装した箱を置いたなら、寄り道をせず帰路に就くだろう。明日は新月だからどうしても落ち着かない、この贈り物を喜んでもらえるか想像するのもまた落ち着かない。道すがら夜空を見上げることも思いつかずに家路を辿る) ……せっかくの部分日食を見る余裕が残っていればいいけど。 (さらさらした手触りの白い紙に冬の星空の濃藍と金のリボンを掛けた包装を解けば、厚紙の箱の中にガラス瓶が収まっている。理科室の薬品棚に並んでいるようなガラス製の広口共栓瓶……の中に細かな砂利や湿った土と苔、そして大小の水晶ポイントが2つ立っている。よくあるシンプルな鉱石テラリウムだったが異彩を放つのは鉱石の傍らで苔の草原に斜めに刺さる鍵。アンティーク調でもない「ごく普通の、その辺の住宅で使うようなディンプルキー」は鉱石テラリウムのレイアウトとして噛み合わない。箱の中に差し込まれたメッセージカードにペン習字のような字で綴られるのは──) このささやかな瓶がぼくの作った世界なら 眺めることもできるでしょう。 触れることも侵すこともできるでしょう。 Merry Christmas. 大切なあなたとの間に生まれた世界に感謝を。
|
鷲宮363. 利谷趣里 | ||
(12月25日深夜。――或いは既に26日に日が変わった頃やもしれない。男は己ひとりで守っている店をそっと抜け出した。飾り付けはまだ残っているものの光の落とされた商店街を駆け抜けて、通いなれたアパートへ。クリスマスイヴでもなければ当日でもない平日の夜に、況してや誕生日当日を祝うことすらできなかった己が彼を起こすのはあまりにも忍びなくて、男にできることと言えば店に数枚入荷し唯一売れ残ったクリスマスカードをそのポストに投函することばかり。) 遅くなって悪かった。 (たった一筆、己の名前すら書かずに、ただ男にしては珍しくそれなりに丁寧な筆致で刻んだカードが一枚。表から見れば紺地に白いクリスマスツリーが浮かび上がるクリスマスカードは、開けば左側が白いツリー型、右が紺のシンプルな四角形になる仕掛けである。本来であればカラーペンを駆使して紺地の部分にもあれこれと思いの丈を綴るのだと先週同じ品を購入していった大学生は語っていたが、生憎と己の場合は黒のボールペンでたった一言を書き込むのが限界であった。――どうか、彼が穏やかな誕生日とクリスマスを過ごせていたように。嗚呼けれど、少しくらいは寂しい思いをしていてくれたなら、)
|
黒野さん360. 宿里恭一郎 | ||
(車窓は夏の居座りの橙色陽が降り注ぐくせに、黄金の稲穂が揺れて秋の訪れを知らせている。自分の恋人は随分と曖昧な季節に生まれたものだと額に滲んだ汗をハンカチーフで拭った。仕事を定時であがり、夜が香り始める商店街を歩く。アポなしの訪問もこの時間であれば構わないとタカをくくっていた。この日はきっと黒野時計店は営業していると前々から承知している。去年の自分の誕生日に、彼は手料理というサプライズを用意してくれていた。やられっぱなしは性に合わないと用意していた贈り物の他にもうひとつ、まずは視覚的驚愕をと道中思い付きで立ち寄った花屋で花束を購入する。薔薇の花?いやそんな王道…と捻くれ精神が選択したのは情熱の赤とはまるで正反対の桔梗の花である。青い星型の花は天体観測が好きな彼の好みに合致してくれまいかと少しの期待を込めて。ゆっくりとした歩みで、陽は橙から藍色に染まり広がって、時計店に辿り着く頃にはすっかりと夜のカーテンに覆われている。クローズまであと少し、自分が本日最後の客となることを信じて扉を開けた。出迎える彼の目に最初に飛び込んでくるのはきっと青い星花の群れ。そこからひょこりと覗かせた赤眼は愛しさに満ちている。) こんばんは、今日が何の日かご存知ですか? メールに電話に手紙…色々コンタクト方法はあったんですが やっぱり会いたいって気持ちには逆らえませんでした。 (お届け物です、と差し出す己らしからぬ花束と。そしてもうひとつは黒い紙袋に入った小箱である。中身は時計をモチーフとしたメンズブローチだった。鈍く光る銀を基調にアンティークの魅力を存分に引き出す職人技の銀細工は普段使いというよりは観賞用に制作されたことが窺える。動かぬ時計の盤面には9月の誕生石サファイヤと3月の誕生石アクアマリン。濃淡の異なる蒼が埋め込まれていた。) 誕生日、おめでとうございます。 その…、(こほんと咳払い) こういうのは口に出さない方が本当は良いと思いますが今日は特別に。 (勿体ぶってそっと耳打つ。 メンズブローチを裏返さぬ限り気付かぬ、英語で記された文言は―…) 貴方と出会えて良かった。これからもずっと傍にいてください。 (そして本音の蛇足を悪戯に微笑み追加する。) …というか、逃がしませんから。 夕飯まだですよね、もうすぐ店も閉店時間でしょう? 一緒に食べに行きませんか? ディナーと洒落込みましょう。
|
ゆうとくんへ356. ××× | ||
(あの日から幾分寒さも和らいだ黄昏時、向坂家の玄関先のすぐ傍の茂みから少しだけ顔を出した白い箱が置かれていることだろう。リボンや花が飾り付けられているわけではなく、本当に質素な四角い箱。中を開けてみれば丁寧に新聞紙で包まれている丸いもの。それを剥がしていくと、ツルン、と白い皿が行儀良くそこに在ることだろう。和洋中、どんな食べ物だろうと無難に役目を果たしてくれるに違いない非常にシンプルなもの。皿を取り出したのならその下には一枚のメモが入っている) ゆうとくんへ おたんじょうび おめでとう よかったら つかって ください ごめんね (ひらがなばかりのまるで子供のような文字はところどころ震えて怯えているようだった。それ以外にこの箱を持ってきた人物の手がかりはない。もしこれが気付かれなくてもそれならそれで構わないと思っているのだろう。開けてもらえるかもわからない皿はまだひっそりと、暗闇でその時を待っている)
|